個別数学系専門塾
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高校生・受験生・大学生・社会人対象
諸々なこと
●合格は目的か●頑張りすぎ症候群
●考え方はみんな違う
●数学が出来ないと文系なの?
●実生活で困らないために
●コミュ力の欠如はヤバイ!
●企業はリケジョを探している
合格は目的か
高校や大学に合格することが人生の目的なのでしょうか?
生きる目的は皆違います. 趣味のため,親孝行のため,これから出会うであろうパートナーのため,まだ見ぬ子に財産を残すため,お客さんのため,国家のため.どれがいいとか,悪いとか言うのではありません. 皆,異なって当然です. しかし,繰り返しますが,大学に合格するための人生ではないはずです.
高校進学や大学進学は人生という名のマラソンの,ほんの一里塚に過ぎません. 立派な大人,社会人となるための一つの段階にすぎません. 将来,胸を張って,「私はこういう仕事を通して社会に貢献しているのだ」と言ってもらいたいのです.
私の友人たちはほぼ全員同じことを言います. 「これまでに,一番勉強したのは,学生時代ではなく,社会に出てからだった」と. そう,社会に出てからが一番勉強するのです. 勉強をしたことのない人が,ある日突然勉強を始めようとしてもできません. 若いうちから勉強することに慣れ親しんでおく必要があるのです. そして,その先に高校進学や大学進学があるのです.
人生というマラソンを少しでも早く走り,良い成果を出すことは必要です.しかし,あまりに速いペースで走ってしまうと,息切れしてしまいますし,逆に途中で休んでしまうと,休み癖がついてしまします.怠ることなく,そして昨日よりちょっとだけ早いペースで走る努力をする.そんな弛まぬ努力が必要なのではないでしょうか.
ページTopへ Homeへ頑張りすぎ症候群
本当は「燃え尽き症候群」と呼びたいのですが,この名前には別の意味があるので,「頑張りすぎ症候群」と私は呼んでいます.
高校受験で頑張りすぎてしまい,高校に入学してから,勉強をやる気が失せてしまった生徒のことをそう呼んでいます.
高校生によく見られるのですが,実際には大学生にも結構います.
大学生の場合,一昔,ふた昔前は「五月病」と呼んでいましたが,いまは「鬱症状」と呼ばれることが多いようです. バラ色の大学生生活を抱いてみたものの,入学してみると,勉強に追いまくられる. バラ色を抱いていたせいもあり,そのギャップが大きく灰色の学生生活になってしまい,「鬱症状」になってしまう人が結構いるのです.
高校生に話を戻しますと,受験勉強から開放され安堵感や安心感に浸ってしまい,勉強から離れてしまうのです.
加えて,新たな友達ができ,部活動も楽しくなってしまい,気がついたときには肝心の勉学が遅れをとっていることに気づく.
さりとて,楽しい交友関係や部活動を覚えてしまった以上,辛かった勉強の毎日には戻ることができない.
こういう高校生が結構な頻度でいます.
一言で言うと受験勉強で精力を使い果たしてしまったのです.
こういう受験勉強はよろしくない.
勉強癖がつくような受験勉強でないと,のちのちに響いてしまうのです.
これに似た話は幾つかの有名企業から聞いたことがあります.
具体的な例を掲げることははばかられますので,少々抽象的に書きますと,
有名高校から有名大学に入学し卒業した学生や超有名高校から超有名大学に入学し卒業した学生は採用する.
しかし,有名高校から超有名大学に入学した学生や超有名高校から有名大学に入学した学生は採用しないというのです.
前者は頑張り過ぎたので,これからの頑張りが期待出来ないため,後者はサボることを覚えてしまったので,これからもサボる可能性がある,という理由からだそうです.
目の前にある壁を越えようとするあまり,越えてしまった後に元気が残っていないのでは何にもなりません.
遠くにある高い目標に向けて,一歩ずつ着実に歩み,一つの壁を越えた後も,次の壁に向かう気力が残っていなくてはなりません.
受験は目標ではありません.大人になるためのプロセス,一里塚に過ぎません.
一里塚に到達しただけで,満足することのないよう努力は継続していきましょう.
考え方はみんな違う
問題の解き方を一つに限定したり,問題を解く際に制限時間をつけることはしません. 正解という頂上に向かって,まっすぐ登る人もいれば,ぐにゃぐにゃ道を登る人もいます. 大切なことは休まずに,一歩一歩着実に歩むことです.
缶コーヒーを見て,横から見た人は長方形だというでしょうし,上から見た人は円だと言います. 中身をみて茶色の液体だという人もいるでしょう. でも,結局は缶コーヒーだとわかればいいのです.
一つひとつの証拠を積み上げて結論に達すればいいのです.
その過程は皆違って当然です.
数学とて同じこと.
問題から何を感じ取るかは人それぞれで違って当然です.
そこから証拠を積み上げる際に,勘違いしたり,違う証拠をもってこないように気を使うことが塾の努めです.
ただし,問題を簡単にすればするほど,皆が同じ証拠を集められるように出来ています.
逆に言うと,問題が難しくなるほど,人それぞれ,個性にあった問題の解き方をします.
それはそれで,いいのです.
ただ,答えに到達するまでが余りに回り道をしているようであれば,その子の解法を肯定した上で,近道もあるよ,と教えてあげることも当塾の努めと考えています.
実生活で困らないために
某国では「だまされてはいけません」と言って子供を育てます.
日本では「ウソをついてはいけません」と言って育てますが,全く逆です.
どちらの育て方がよいかという議論をするつもりはありません.
それぞれの国の文化や習慣にそぐう育て方をすればよいと思います.
問題は国によって文化や考え方が異なることを理解しているか否かです. 国際化の時代です.私たちの周りにどのような人がいるかわかりません. 人は悪人ばかりだというのでは決してありません. 悪い人よりも良い人の方がはるかに多いのは間違いありません.
蛇足ながら,海外に出かけるときに言われることがあります. それは,何か困ったことが生じたら周りの人に自分から「助けて下さい」といいなさい. 自分から助けを求めた際に悪い人にあたる確率は,「助けてあげましょうか?」と近寄って来る人が悪人である確率よりも遥かに低い,と言われていま す.
さて,話を戻します.
昔から言います.「うまい話には裏がある」と.
また,怪しげな商品・儲け話を持ってあなたに近づいてくる人がいるかもしれません.
その手の話には論理的な欠点,破綻があるのです.
その論理の穴を見つけるためにも必ずは数学で鍛えた論理的思考は役立つことでしょう.
そこまで極端な話ではないにしても,借金の利息に苦しめられたり,住宅ローンに四苦八苦している人は結構います.
高校時代に習った数学を少し思い出してもらえたら,そんな苦しい目に合わなくてすんだのに,と残念な思いをすることがしばしばあります.
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コミュニケーション能力,よく使われる言葉です. でも,ちょっと曖昧な言葉でもあります. 友達や近所の人と仲良く付き合うことができればコミュニケーション能力がある,と言えるのでしょうか? 当塾ではコミュニケーション能力を「自分の考えを相手に正確に伝えること」と解釈しています.
私たちは一人で生きていくことはできません. 仕事であれプライベートであれ,多くの場合は誰かと一緒に考え行動します. それは仲間かもしれません,お客様かもしれません,そして家族かもしれません. でも,多くの場合は誰かと一緒です. その時,誤解されたり,齟齬を生じさせたりしないためにも,自分が考えていることを正確に相手に伝える必要があります.
昔の日本は他人に同意を求められたとき,返事をしなければ「否定」と解釈しました. しかし,今の日本では返事をしないことは「肯定」と解釈されかねません. 自分の考えを相手に伝えなくてはならないのです.
今の時代は,「多くは語らずとも雰囲気でわかってよー」などというぬるい時代ではなくなってしまっています. 特に育った国や地域の文化や習慣が違う人との間には,そのようなぬるい関係を期待することは全くできません. 同じ文化や習慣の人とでも利害がからむと,やはり同様です. コミュニケーション能力を身につけることは不可避なのです.
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「リケジョ」という言葉をご存知でしょうか?数年前 から使われる ようになった,理系の女子を指す言葉です.
企業が大学新卒者向けに発行するパンフレットを見ると,多くの企業では働く先輩達からの一言や仕事ぶりが紹介されています. 掲載されている先輩達を男女比の観点から眺めると,ほぼ1対1となっていることに気付きます. これは意図的に,1対1になるように作っているわけではないと企業の方は言います.各部署で活躍している人を選ぶと,なぜか1対1になってしまうそうです. 採用人数は男性の方が多いにもかかわらずです.
つまり,企業は「リケジョ」が戦力になってくれることを知っているのです. ですから「リケジョ」は就職に有利に働くと考えた方がよいようです.
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